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2012年05月18日

祖国復帰について

5月15日は沖縄の日本への復帰記念日でした。



あれから40年経った。


20~30歳代の人たちは復帰ということが身近に感じないだろうから、
復帰を経験した者として自分の感じたことを書いてみる。



1972年5月15日は私はたしか高校3年生だった。

当時は本土復帰ということにあまりピンとこなかった。

サッカーに夢中になって、あまり政治に感心のない高校生活を送っていた。





日本がアメリカとの戦争に負けて、唯一上陸されて基地が造られていた
沖縄だけはアメリカ合衆国の支配下に置かれた。

沖縄は日本から切り離されたのだった。

お金もB円からドルに変わった。
私が4~5歳のころにB円からドルに変わった。
物心ついた頃からドルだったので、何も感じなかった。
それが普通だった。


そしてアメリカの兵隊を身近でよく見た。

私が小さい頃、近くに米軍の演習場があり、アメリカの兵隊が演習していた。

空砲だけど鉄砲を撃ったり、パラシュートで空から下りてくる演習を、
遠くから見たりした。
子供だったのであまり怖いと感じなかった。

兵隊が引き上げた時にいろいろなものを捨てていくので、
それを探しに行くのが楽しみだった。
缶詰に入ったクラッカーなどがたくさんあった。
それを缶きりで開けて食べたりした。
食べるものもあまりない時代だったので、すごいごちそうだった。
ヤッキョウといって、ライフルの空砲の殻がたくさん落ちていて、
それを拾って集めた。
金物を買いに来る人がいて、その人が2セントとか5セントとかで買ってくれた。
子どものときのいい小遣いかせぎになった。




当時は米軍人の事件や事故がとても多かった。

アメリカ人が沖縄の人を殺しても日本の法律で裁けなく、無罪になっていた。
中学、高校になるにつれ、そのことにとても怒りを憶えた。
沖縄の人は同じ人間として扱われてなかった。

それを黙認していた日本政府に腹が立ったし、情けなく思った。

沖縄は差別されていた。



アメリカの人全てが悪いのではなくて、一部の人が事件を起こすのだろうけど
平気で人を殺す感じがして、怖い人種だと思った。




その時代はベトナム戦争があって、アメリカはその戦争に加担していた。

ベトナム戦争でたくさんのアメリカの兵隊が死んだ。

アメリカ本国から直接ベトナムに行けるわけではないので、一旦沖縄に
駐留し、それからベトナムに送られた。
沖縄からベトナムに送られて戦死する兵隊が多かった時代だ。

いつ戦地に送られて死ぬかもしれないという気持ちを持ってた兵隊は、
給料が支払われる金曜日(いわゆるペイデイ)の夜は基地入り口近くの
バーに行って、酒を飲んで有り金のほとんどを使っていたと言う。
どうせ死ぬんだからお金を残してもしょうがないという気持ちだったのだろう。

コザや金武などのアメリカ相手の社交街は(Aサインバー)、兵隊の
おかげで相当儲かったと言う。


沖縄戦で米軍に親や兄弟を殺された沖縄の人たちが、アメリカの兵隊の
おかげで、一部の沖縄の人たちがとても儲かったという不思議な時代
でもあった。






1972年の3月に修学旅行で本土へ行くことになったのだが、日本政府から
身分証明書というものが発行された。

祖国復帰について


これはいわゆるパスポートみたいなもので、
本土と沖縄を旅行する日本人であることを照明するものだった。

祖国復帰について


同じ日本国内を旅行するのに何でこんな証明書が必要なんだ!!

わかってはいたことだが、沖縄が日本でないんだということを感じたのを
憶えている。

最後の身分証明書を発行された高校生になった。
その身分証明書を今も持っている。

お金も必要な分だけ、ドルから円に交換して持って行った。
ドルと円の計算をしながら買い物をしたが、結構大変だった。

祖国復帰について


1972年3月18日に「日本国への帰国を証する」

3月31日に「日本国からの出国を証する」

とされている。


沖縄は日本とは切り離されていたんですよ。




ちょっと重い話ですが、当時を知るにはこんな話もいいんじゃないでしょうか!!


まだ続きます。

今日はこの辺で!!

また次回に!!


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Posted by 建築アトリエ海 at 14:52│Comments(9)日常のこと
この記事へのコメント
ダイアン・Mさん

沖縄の人が総理になる!!

大胆な発想ですばらしいと思いました。
そうですね、日本を動かす人が沖縄から出て
ほしいですね。
ただ今の国会議員は政党や派閥の問題、与党野党
があり、一人では何もできないですよね。
与党じゃないと政治を動かせないですからね。
そしてほとんどの議員がしがらみがあって、自分のことが
第一で国民のことは真剣に考えてないように思う。
特に今度の東北大震災でも復興をやらないで、それを
ごまかすかのように瓦礫の処理を全国でやろうと、メディア
も一緒になって国民の目線を変えようとしているように感じる。
今やることはもっと早いスピードで復興をやることじゃないでしょうか?

既得権やしがらみのない、自分のことよりも国民のことを先に考える人が国会議員になって、日本を動かしてほしいと思います。

でもそういう人はいないでしょうね。

基地問題にしてもオスプレイの配備にしても、沖縄の人たちが
県民全員で反対と声を上げないから、国は押し付けてくるんじゃないでしょうか?
Posted by 建築アトリエ海建築アトリエ海 at 2012年05月21日 00:20
ダイアン・Mさん

たぶん8歳の差でしょうね。

すみません、今から出かけますので
続きは明日書きます。
Posted by 建築アトリエ海建築アトリエ海 at 2012年05月19日 18:45
の~りー さん

昨日、偶然会えてよかったです。

の~りー さんたちの世代も沖縄はこんな歴史があったんだ
ということを知ってた方がいいと思います。
まだ続きがありますので、読んでくださいね。

またシーランドで会いましょうね。
Posted by 建築アトリエ海建築アトリエ海 at 2012年05月19日 18:40
DA-1さん

DA-1さんたちは復帰後に生まれたから、当時のことは知らない
ですよね。
まだまだ続きがありますから、こんなことがあったということで
読んでくださいね。
Posted by 建築アトリエ海建築アトリエ海 at 2012年05月19日 18:35
GOTさん

B円は私がおぼろげにしか憶えてないので、ちょっと無理
でしょうね。
GOTさんはまだ生まれてなかったと思います。

復帰しても基地は残りましたからねー!!
特に普天間基地をそのままにしているというのが理解できないです。
街のど真ん中に基地がありますから・・・
ましてやオスプレイの配備を政府が承認したというのが考えられない。
政府の人たちは沖縄の人がどうなってもいいと思ってるんでしょうか。
やっぱり沖縄は差別されてるんですよ。

県外、国外というより撤去すべきですね。
Posted by 建築アトリエ海建築アトリエ海 at 2012年05月19日 18:31
建築アトリエ海さんとは、8,9歳の違いだと思いますが、
それだけでも「復帰」への記憶がこんなに違いますよね。
「身分証明書」というのは初めて聞きました。県外に行くときはみんな「パスポート」を持っていたのかと思っていました。非常に貴重な「資料」ですね。
確かに豊かになったけど、基地負担の現実は変わっていません。いつも思うのは、「国」にはっきりとものを言える国会議員を選ぶこと、だってこの人たちが一応、日本の外交、防衛を決める
国会というところにいるので、影響力のある人を議員にしたい、それと、究極的には沖縄の人が総理にならない限り、基地問題は解決しないのではと思ったりします。
Posted by ダイアン・Mダイアン・M at 2012年05月19日 12:49
夜遅くすいません
今日はお会いできて良かったですまたお話しましょうね


正直、復帰について全然考えていませんでした。
同じ国なのにパスポートみたいなものがあったんですね(*_*)

まだまだあるみたいですがこれだけでも勉強になります。
Posted by の~りー at 2012年05月19日 00:27
う~ん、勉強になります。
Posted by DA-1DA-1 at 2012年05月18日 16:07
復帰40年 ワタシはB円は全然わかりません・・・

でも、復帰して内地資本がはいって物は豊に
なったけど・・・相変わらず、普天間飛行場の騒音は
40年たったいまでも変わらないもんねえ

いつになったら・・・世界一危険な基地を撤去できるのか
と思います。

子や孫世代になっても平和が続きますように基地脅威は
早くなくしたいと切に願います。
Posted by GOT at 2012年05月18日 16:00
 
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